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1.プロローグ
ハッブルが宇宙膨張を発見した頃、彼はMount
Wilson の100インチ鏡で銀河の赤方偏移の観測を連
夜にわたって行っていた。真冬に1,742mの山項、
ニュートン焦点で寒風にさらされての観測はさぞ大
変だったことであろう。観測した銀河は10magとい
う今日では目もくらみそうな明るい銀河である。
「連夜」といったのは、当時は一晩中6−7時間連
続して露光し、それが3夜にわたって計20時間以上
の露出をかけて、ようやく銀河一本のスペクトルが
撮れたようである
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。今では、こんなスペクトルは
30秒もかからないであろう。
「Realm of the Nebulae」
によれば、膨張宇宙を発見した1928年の時点では、
赤方偏移が測定されていた銀河はわずか41個、その
後7年間に160個増えただけだったと記している。
これとよく似た光景が1963年の岡山で見られた。当
時、京大の助手であった小暮氏は修士課程の学生大
谷氏と共に、74インチ鏡ニュートン焦点にNebular
Spectrograph(星雲分光器)なるグレーティング分
光器をつけ、NGC4258を必死で追いかけていた。
検出器はコダック・ロールフィルムから切りきざん
だ巾8mm程度の103a-Oのフイルムであった。彼ら
のスペクトルをいつか見せてもらった事がある(現
存しているか否かは不明)。Citylightの水銀の輝線
を貫いて、銀河中心核のcontinuumがうっすらと写
っている。NGC4258の輝線は写っていなかった。
このスペクトルは、そこから何か有意義な情報を得
て、研究論文に仕上げられる代物とはとても思えな
かった。小暮氏らはこの観測を2年程継続したが、
結局、giveup。「銀河の分光観測事始め」は不発に
終わってしまった。
2.銀河の分光観測事始め:Image Intensifier
この頃、アメリカ・ワシントンにあるカーネギー
のDTM(Department of Terrestrial Magnetism)で
は、Kent Ford らがImage Intensifier(I.I.;アイ
アイ)なる最新機器を開発していた。数年後、彼ら
はこのすぐれものを世界の主だった天文台に無償で
供与することとなり、岡山にも大沢所長を通じて1
台やって来た。1967年の事である。写真乾板より10
倍程感度が良い、とのふれ込みであった。近藤、西
村、大沢の諸氏らは最初クーデでその威力を確認し、
その後、これをdetectorとする「カセグレンI.I.分
光器」を「Nebular Spectrograph」の後継機として
作ることにした。日本光学の手で制作され、テスト
を繰り返していたのが1969年秋のことである。1970
年2月、私は当時、京大・宇宙物理の博士課程の学
生で、後輩の作花、岡両君と3人でこの分光器によ
る銀河の分光観測を開始した
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。我々の観測天体は、
出版されて間もないArpのAtlas of Peculiar Galaxies
の215番目の天体であった。Seyfert により特異銀河
としてリストされていたが、結局削除された「落ち
こぼれ銀河」である。
夕闇が深まる頃、74インチ鏡がArp215近くの明
るい星に向いた。副鏡を移動させスリット面上で望
遠銃のフォーカス合わせが始まる。ハンドセットの
ボタンを押し、アメーバのように動く星像を見なが
ら、「あっ、もう通り過ぎてしまった。」何度やって
もなかなか焦点位置を決められない。副鏡位置を示
すカウンターが付いていたら、もっと早く、もっと
確実に決められるものを。【そして、3年後にカウ
ンターが付けられた。】
次いでArp215の導入である。今夜担当のW氏が
研 究
銀河の観測事始
若松謙一岐阜大学教授
[注]a
分光器のカメラレンズはF=0.60であった。F=0.35のレンズも作ったが実用化されなかった。
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銀河の撮像観測は、既に高瀬氏らのグループがニュートン焦点で精力的に行っていた。