146 1995年(平成7年)の天文月報第88巻第7号の天 球という項目に、私は「大望遠鏡の黎明」という題 目で岡山天体物理観測所の74吋(188センチ)反射 望遠鏡のできた由来経緯をかなり詳細に記したの で、その重複は避けるが、この度、観測所開設40周 年の記念すべき時をむかえ、あらためて開設にいた るまでの事態を簡単に述べ、参考までに私がたずさ わった分光観測について記したい。 1953年、当時東京天文台長だった萩原雄祐先生は 日本学術会議の総会で、大型反射望遠鏡の設置の必 要なことを述べられ、それが決議として通った事か ら、この事業は出発した。問題の望遠鏡のサイズ、 注文すべき光学会社の選択、設置する場所等が早速 取り扱わなければならないことであった。そのため の委員会が設立された。 望遠鏡はイギリスのグラブ・パーソンズ会社、口 径は74吋の反射望遠鏡、設置場所は1956年の6月、 岡山県鴨方町の竹林寺山と決定した(図5−7)。 10年近い年月を経て、1960年の10月19日観測所の開 所式が挙行されたのであった。その時私はカナダの 西海岸ビクトリアのドミニオン天体物理天文台で奇 しくも殆ど同じ口径の72吋反射望遠鏡(グラブ・パ ーソンズ製)で観測に従事していたが、大きな喜び であった。12月の初め帰国した私はとるものもとり あえず、観測所に駆けつけた。12月15日であった。 そしてテスト観測の仲間入りをしたのである。 最初の観測は12月16日。G3と呼んだプリズム分 光器による観測で、星は19 Psc, W Ori, UU Aur, 51 Gem で使用した写真乾板はネオパンで露出時間は 第5章 岡山天体物理観測所 に思いを寄せて 藤田良雄 東京大学名誉教授、学士院会員 図5−7 1954年6月、観測所適地選びの山歩き
147 それぞれ40分、60分、60分、30分であった。最初の 3星はC型、最後の星はM型である。この日以来私 は現役時代の二分の一近くを74吋にかけた。そして その内実際の研究成果が得られたのは約10年間の観 測であった(図5−8)。具体的なことを次に述べ よう。私が最初に使った分光器はプリズム分光器で G3と呼んでいたもので、分散度がHαからHβで 170Å/mm、HβからHγで80Å/mm であった。同 じくG10は8000Å(153Å/mm)、7000Å(105Å/mm)、 6000Å(66Å/mm)、5000Å(38Å/mm)、4000Å(13 Å/mm)であった。この二つは直接、望遠鏡のカ セグレン焦点にとりつけてあった。3月の末頃から クーデ焦点を試みた。回折格子1200本を使い正向き でF/4のレンズを用いると一次で20Å/mm、二次で 10Å/mm、逆向きでF/10を使うと8000Å(6Å/mm)、 4000Å(3Å/mm) という高分散を得られた。目的の星は最初はテス トのためにM型、S型も撮影したが、本格的な観測 を始めてからは、低温度のC型星の観測に終始した。 1964年の12月21日、初めてエシェル格子を使用した。 1800本でF/10を使うと、一次で分散度 0.94Å/mm 6420-6990Å 0.79Å/mm  5260-5830Å 0.67Å/mm  3610-4210Å という高分散が得られる。写真赤外領域をよく狙 ったので、写真乾板は増感するのが普通であった。 イーストマンのIN、IZを使用したが、エシェルの 場合は103a-Fを使った。増感液はタングステン酸溶 液にエタノール、蒸留水を加えたものである。最初 に撮影したのは240分露出で19 Psc、120分露出でY CVn だった。 1967年の5月24日から29日までの自分の観測期間 には初めてI.I.(星像強度増倍管)がセットされ た。RY Dra を8時間の露出であった。 以上私の観測の大要を述べたのであるが、何時も 必ず観測のお手伝いをして頂いた多くの方々に感謝 の外はない。若干の成果をあげることができたのは、 ほんとうに助けて下さったお陰であることを、今に なってしみじみ思うのである。 研  究 図5−8 1963年1月、74吋ドーム待機室でのひととき (右が筆者、中央左は山下泰正さん) 1960年代は検出器はすべて写真(乾板)であった。低照度用乾板をある国産メー カーも開発したがコダック社の方がすぐれていた。したがってすべてが輸入となり、 通関のトラブル、税関による使用追跡調査等面倒なことが多くあった。輸入された 乾板は業者から三鷹の天文台に運ばれ冷蔵庫に保管される。三鷹から岡山の観測所 までは観測所の職員が乾板当番と称してその度に運んでいた。ドライアイスを詰め た約1m×50cm×50cmくらいの輸送ダンボール箱を寝台車の3段ベッドの上段に押 し込むと他の人の荷物が入らなくて冷たい目で見られたことを思い出す。当時は多 くの道が未舗装で、東京から岡山まで荷物を送ると何日も掛かってしまい、乾板が 温度かぶりを起こしてしまう恐れがあった。その後は官用車、運送会社と変わって いったが東京岡山は遠かった。 乾板輸送