134 私は開所後1年余りすぎた昭和36年暮れより勤め ております。就職してすぐに188cm望遠鏡ドームの 近くにありました仮設の小屋(パイプハウスと呼ば れ188cm望遠鏡がイギリスから輸入され税関の人が 出張して通関作業を行った建物でした)を移設して 中を仕切って食堂、工作室、車庫、倉庫にしました。 後に食堂は本館から遠くて雨の時や夜間に不便であ るということで昭和54年に本館のすぐ東へ新築にな りました。 移設工事と共に188cm望遠鏡ドーム周辺や本館周 辺及び本館からドームまでの通路も整備することに なりましたが、その工事中、昭和37年3月西の阿部 山で山火事が発生し、天文台方向に延焼し、近隣の 町村消防団が駆けつけ、後には自衛隊まで出動しま した。夜に入って当時の三木岡山県知事まで駆けつ けてくださいました。隣の遙照山の旅館からはつぎ つぎにぎり飯など見舞いがきて職員は徹夜で対応し ました。 地理に詳しい職員の案内で太田池に可搬ポンプを 運び、約70ヘクタール焼失後、ドームから600mく らいのところで延焼をくい止めることができまし た。火が迫ったきた時ドーム周辺の松の木を伐採し たために整備計画が変更になり、現在のように西側 からもドームへ行き来ができる道路ができました。 昭和41年クーデ型望遠鏡ドームの基礎工事中に土 器や石器の破片が多く出土しました。石棺まで出て 新聞に掲載され、町の担当の職員の方から「出土品 が出たときに通報がなかった」ときびしくお叱りを 受けました。倉敷考古館の方がお見えになられて 「弥生時代後期のものです。生活の跡は無いようで すので石棺は近くへ復元され出土品はまとめて保管 してください。この当時はふもとで稲作をを営んで いて、亡くなった人をここ迄運び上げて埋葬したも のでしょう」とのことで工事には支障ありませんで した。 後日天文台を含む山の一帯が竹林寺遺跡地として 登録され工事の際は必ず事前に届けでをしなければ ならなくなりました。昭和63年国立天文台に改組さ れ、門標をどうするかいろいろ検討しましたが拓本 (図1−17参照)にとり東京大学東京天文台のとこ ろを字体を似せて国立天文台とすることになり、現 在のものを設置することになりました。 第4章 思いつくままに 米澤誠介 岡山天体物理観測所事務係長