OASIS(岡山近赤外多目的分光撮像装置)の開発 の歴史を振り返ってみると、大きく分けて三つのフ ェーズに分かれるのではないかと思う。すなわち、 1.三鷹での開発(1991年〜1994年春)、 2.三鷹、岡山間を行き来しながらの開発(1994 年春〜1995年末) 3.岡山観測所に常置しての開発(1996年以降)、 である。それぞれの開発フェーズについて、記録 には残っていないが記憶にはしっかりと残ってい る、という出来事を中心に回想してみたい。 1.三鷹での開発 私が大学院生として国立天文台三鷹に出入りする ようになったのは1992年4月である。したがってそ れ以前のことはよく知らないが、私がOASIS開発プ ロジェクトに参加した時点でのメンバーは、当時光 赤外の助手だった山下卓也氏、大学院博士課程の1 年だった西原英治氏、そして私の三人であった。最 初の半年はひたすら図面を引き、その後東大天文学 教育研究センター(当時)の片 宏一氏の協力を得 て検出器読み出しのための電気系統の開発を進め た。1993年4月には森  淳氏が新たにグループに加 わり、ちょうどこの頃からモノがそろい始め、真空、 冷却等の実験ができる段階になった。冷却能力を上 げることを目的として、アルミ合金の放射率を下げ るために表面を研磨機で磨いたこともある。これは 耳栓と防塵マスクをしての作業であった。あまり長 く続けると職業病にでもなってしまうのではないか と思いながらの作業であったが、実際にどれだけの 効果があったのかは定かではない。 その後開発は順調に進み、小林行泰氏(天文機器 開発実験センター)の助言を参考にして検出器の読 み出しができるようになったころ、山下氏は三鷹か ら岡山天体物理観測所へと勤務地変更となる。その 数ヵ月後、OASISグループにとって最初の試練が訪 れた。私の修士論文である。当時OASIS以外の仕事 はしていなかった私にとって、OASISの開発以外の テーマで修論を書くことはありえなかった。しかし、 修論にまとめるとなるとやはり最低限のデータは必 要である。そこで、実験室にこもって検出器の性能 評価のためのデータをひたすら取り続けた。年末年 始の休みを取る余裕などなく、この年は一人実験室 114 第3章 OASISの開発 奥村真一郎 元岡山天体物理観測所COE研究員 (現宇宙開発事業団地球観測利用研究センター)
の中で除夜の鐘を聞いた。満足の行くデータを取り 終えたのは修論締め切りの実に一週間前であった。 修論発表の前日には何年ぶりかの大雪に見舞われる というハプニングもあったが、開発メンバーの支援 のおかげで修論は無事に乗り切ることができた。一 ヶ月後の1994年3月にはOASISを初めて岡山観測所 に持ち込み、188cm鏡に取り付けるに至った。この 時は光軸が大きくずれていたため天体からの光を受 けることができなかったが、4月に再び持ち込んで 天体からの赤外光を検出することに成功し、ファー ストライトを迎えることができた。なおOASISと 188cm鏡のインターフェイス部分(ガイドアクイジ ション部)は観測所の渡邊悦二氏による製作であり、 この頃からOASISの開発は渡邊氏を含む5人体制で 進めてゆくことになる。 2.三鷹、岡山両方での開発 1994年3月以降、主に三鷹で開発しながら時々岡 山に持っていって望遠鏡に取り付け、問題点を明ら かにしてまた三鷹に持って帰り、改良し、実験を行 なう、というスタイルがしばらく続いた。当初は官 用車と西原氏所有の車の2台にOASISと周辺機器を 積んで行き来するのが常であった。この官用車はお せじにも乗り心地の良いものではなく、サスペンシ ョンがやけに硬い上にエアコンすら付いていなかっ た。カーステレオなどもちろんなく、かわりにCD ラジカセを積んで運転中に聞こうとしたところ、振 動で音が飛びまくってとても聞けたものではなかっ た。観測所に運んできてOASISを車から降ろそうと すると、運搬中の振動のためにねじが1〜2本抜けて しまって床にころがっていたこともあった。三鷹か ら岡山の観測所までは、あまり飛ばさずに安全運転 でゆっくり行くと10時間ほどかかる。西原氏の車は 途中で私が交代して運転することができたが、官用 車を運転することができる交代要員がいなかったた めにずっと一人で乗り心地の悪い車を運転し続けた 山下氏の苦労は容易に想像できることと思う。これ に耐えかねた結果、氏は2ドアのスポーティーカー を一台所有していたにもかかわらず、OASISの運搬 用に2台目の車(5ドアスポーツワゴン)を買って しまったといういきさつがある。 さて、この開発フェーズで最も印象に残った出来 事と言えばやはり1994年7月に起こったシューメー カー・レビー第9彗星の木星への衝突現象であろう。 この時の観測の様子は渡部潤一著、「彗星の木星衝 突を追って*」(誠文堂新光社)に臨場感あふれる表 現で記述されているのでここでは省略するが、この 観測がOASISにとって事実上のサイエンティフィッ ク・ファーストライトであった。 この時期は一年の3分の1近くを観測所内で過ご すような生活であった。観測所に20連泊ということ もめずらしくなかった。滞在中のささやかな楽しみ といえば、遥照山のかんぽの宿に入浴に行くこと、 天満屋ハピータウンに買い出しに行くこと、そして 夜な夜な抜け出してラーメンを食べに行くことであ った。メンバーはもちろん西原、奥村、森の三人であ る。児島の「T」や福山の「T」(両方Tか!)がお気 に入りであった。鴨方インターから高速を飛ばして 児島まで行ったこともある。思えば若かったものだ。 1995年1月の阪神淡路大震災の時も森氏を除いて われわれメンバーは岡山にいた。観測を終えて寝入 りばなに、「ドーン」と下から突き上げられるよう な振動であった。東京で頻繁に発生する地震の揺れ 方とは明らかに異なっていた。そのまま眠りについ たが、起きたときには神戸の街は大変なことになっ ていた。この時は中国自動車道が不通になってしま ったので山陰まわりで京都に出ようかなどと相談し ていたが、東京へ戻る当日か一日前に車線規制があ ったもののようやく開通し、遠回りはせずにすんだ。 帰路の途中、西宮あたりではあちこちの家で屋根の 上に雨よけの青いシートがかぶせられてあった光景 は未だ忘れることができない。 1995年7月にはやっとPI装置としてではあるが、 一般ユーザーに公開される事になった。しかし制御 部分が未完成で、観測モードの切り替えやフィルタ ー、スリットの交換は手製のパルスジェネレータを操 作してパルス信号を送り、モーターを駆動するとい う方法であった。間違ったパルスを送ると当然予定 していない位置まで動いてしまったりするので、非 常に神経を使う作業であった。パルスジェネレータ を作ったという経緯からか、ファーストライト以来 たいてい私がこの係であった。作った本人ですら神 115 観測装置 編集者注:*ISBN:4−416−29512−X
経をすり減らす作業であるので、この部分はあまり 一般ユーザーにはまかせられない。そういったこと もあり、OASISの観測には最低一人、われわれグル ープの誰かが付き添う、という形での公開であった。 OASISを三鷹に持って帰ったのは1995年の秋が最 後だったのではないかと記憶している。その後 OASISは岡山に常置されることとなる。この時期に 西原氏が学位を取得し研究員として岡山に常駐する ようになったこともあり、以後の開発は部分的な設 計製作を除いてほとんど観測所内にて行なわれるこ とになる。 3.岡山での開発 OASISを岡山観測所に常置するようになったこと で、最も変化のあったことはあたりまえであるが三 鷹−岡山の往復に車を使わずにすむようになったこ とである。初めて新幹線に乗って観測に来た時はす いぶんと新鮮な印象を感じずにはいられなかったも のだ。この時期には山下氏と西原氏が主に制御系の 開発に取り組み、私は学位論文の準備のためしばら く開発からは手を引いた状態であった。そう言えば この年(1996年)はOASISの開発に携わるようにな ってから初めてゴールデンウィークに休みを取れた ように記憶している。 この年の7月からは正式に共同利用装置として供 されるようになった。とは言っても制御系の開発は まだそれほど進んでおらず、やはり観測には誰かメ ンバーが付き添う、という状況は変わらなかった。 西原氏の努力によりワークステーションからマウス のクリックだけでフィルターなど可動部分を動かせ るようになったのは、1997年の初め、ちょうど私が 学位論文を仕上げたのと同じ頃だったと思う。 その後私自身もCOE研究員として観測所に来る ことになるが、OASISの稼働率としてはこの頃が最 も高かったのではないだろうか。そのため、この時 期は開発というより保守、運用のほうで手一杯にな ってしまった感がある。 以上、OASISの開発について順を追って回想して きたが、現時点ではどうかというと、観測所の柳澤 顕史氏、OASISオリジナルメンバーの森氏、渡邊氏 らを中心に清水康廣氏や浦口史寛氏らも加わって、 これまで明らかになった問題点を改善すべく、大改 修に取り掛かっている。彼らの手にかかることによ り、ぜひとも寿命の長い装置に育ってほしいと思う。 最後に、OASISの開発に関しては前原英夫所長は じめ観測所の技術スタッフや事務の方々にずいぶん いろいろと無理をお願いし、また、様々な状況で手 助けをしていただいた。ここに改めて御礼申し上げ たいと思う。 116 第3章 「天文台日記」より 石 田 五 郎 著(筑摩書房) 6月11日  雨のち曇 毎日、曇り空がつづく。終夜、雑談の花がさく。開設当初、やはりこのような梅雨ぐもりの晩、数人"深夜 喫茶"にすわり、テスト観測の晴れ間待ちをしていたことがある。突然、ドームの西玄関で、コロが怒ったよ うになきだしたので、部屋から出てみると、曇り空の乳白色の月光を背景にして、やせた男が戸口にたって いた。髪の毛はバザバサで、縞柄の紺の背広にネクタイ、えりには赤い花をさし、しかも素足にゴムぞうり。 ほおにはひっかき傷か、血が一すじ赤くにじんでいた。「何か用ですか」とやっとの思いできくと、男は大き くとびだしたノドボトケをごくりとさせて、「ココハドコデスカ?」と、かぼそい声でたずねる。ユウレイで はないと安心したが、ウスキミわるいことには変わりはない。時間をかけていろいろ聞くと、となり町の美 星町のもので、足先に電気を感じその方に足を向けると、そこだけ霧がはれて、深い草むらを電気の感ずる 方向へ歩いた末、ここへついたという。椅子にすわらせて休ませる。目はつぶっているが、時どきまぶたが ピクピク動く。夜の明けるまでが長かった。美星町の役場に電話すると、10時すぎに家人がハイヤーでひき とりに来た。軽い分裂症で自宅で寝ていたのが、昼過ぎから姿がみえず心配したという。山ひとつこえた15 キロの先から、ぞうりばきで歩きつづけたらしい。ここは建設当時から、観測開始になってもまだ事故は起 こらない。深夜の作業だけにユウレイの訪問はごめんだが、これが唯一の怪談ばなしともいえる。