1965年ごろ、大学院で宇宙線物理学を専攻し、宇 宙線研究室の助手にはなったものの、宇宙線研究に 展望が持てずに悩んでいたころ、教室におられた早 川幸男先生の提唱で、赤外線観測の話が議論されて いた。杉本大一郎さんや松本敏雄さんらと話し合っ て、何はともあれ、地上望遠鏡を使って観測を試み ることになった。とは言うものの、赤外線はもちろ んのこと、天体観測にも何の経験もなかったが、盲 蛇に怖じずで、何もかも手探りで始めることになっ た。 ちょうどそのころ、カルテクグループによる2ミ クロンサーベイの結果が、Astrophys. J. Lettersに NML-Cyg, NML-Tauなどの赤外線星の発見を報じて いた。当然のことながら、天体観測には高感度の検 知器が不可欠であるが、当時、国産では望むべくも なく、かといって、防衛技術的要素の強いものであ ることから、容易に輸入出来るものでもなかった。 やっと探し出したのが、浜松テレビ(現在の浜松ホ トニクス)で作っていた硫化鉛(PbS)検知器で、 ガラス管に封入された見るからに素朴な検知器であ った。これでは本格的な観測など出来るわけもなく、 考えあぐねた結果、明るい月の観測を試みることに なった。観測器には干渉フィルターを用いた簡単な 測光器を用意した。ただ、光学観測と少々趣を異に したのは、赤外域での大気放射が大きい点を考慮し た、空間チョッピング機構を加えたことであった。 大学には、もちろん、観測に利用できる望遠鏡な どあるはずがない。そこで、当時、東京天文台の好 意で共同利用の便宜がはかられていた、岡山天体物 理観測所の望遠鏡を使わせてもらうことになった。 これがわが国の赤外線観測の事始めになった。観測 は、月の表面輝度をI、J、Kの3色で測るといった 単純なもので、月面上での強度比の変化とそれの月 齢による位相変化を測定した。得られたデータから Mieの散乱理論を使って月の表面を被う固体微粒子 の特性を推定した。その結果は、直後に飛んだアポ ロによる採取された砂粒の直接測定と良い一致を示 したのには気を良くしたものであった。 そうこうしているうち、1967年、私自身は京都大 学の物理学第2教室に移ることになり、長谷川博一 先生の開かれた宇宙線研究室の中で赤外線観測を進 めることになった。ここでも、もちろん、ゼロから 110 第3章 赤外線観測事始 奥田治之 ぐんま天文台副台長
の出発で、長谷川先生の暖かいご支援と大学院に入 ったばかりの舞原俊憲君、佐藤修二君の協力の下に 観測の立ち上げを行った。その頃になると、やっと 米国からの赤外線検知器の輸入が可能になったが、 入手できるのはPbS検知器に限られていた。これは 液体窒素で冷却できるもので、それによって国産製 に比べて2桁以上の感度の改善が可能になった。冷 却用のクライオスタットを東理社に特注で作っても らったが、当時は金属製のクライオスタットは珍し く初めは真空漏れに泣かされたものであった。そん なわけで、岡山での観測には、真空ポンプを持って いくことが欠かせなかったし、第1教室の低温物性 実験屋さんの知恵を借りて、ガラス管に封入したチ ャーコールによるクライオポンプを望遠鏡にぶら下 げて観測するなどといった不恰好なものになったり した。 初めの観測は、赤外強度の強い晩期型の星や2ミ クロンサーベイで見つかった赤外線星の測光観測な どを行ったが、独自の要素を取り入れたいというの で偏光観測に力を入れることにした。これは、一つ には、わが国の高温多湿の赤外線観測にとって不利 な観測条件を考えたとき、精度の高い測光観測が期 待できないという不安があったためである。それを 避けるために短時間における強度変化を測定する偏 光観測が有利だと考えた。もちろん、偏光観測は外 国でも手付かずの領域であることがこれを始める最 大の動機であった。偏光計は測光器のビームの中に プラスティックの偏光板を回転させて信号の時間変 化をはかるといった極めて原始的なものであった。 早川先生などは、こんな単純な器械で、偏光などと いうセカンドオーダーの量を測定するのは難しいの ではないかと懐疑的であった。そんなわけで、初め は自信もなく、また、どんな天体を対象にして良い かも定まらぬままに岡山へ出かけたのが実情であっ た。 しかしながら、天はわれわれに味方してくれたの である。曇り空で観測の出来ないある夜、図書室で 見たAstrophys. J. の最新版に、有名な晩期型星の一 つであるVY CMaに可視光で10%を越える大きな偏 光があることが報じられていた。急遽、晴れた夜を 待って、この星に望遠鏡を向けた。じっと見つめる ペンレコーダーの針先が偏光板の回転とともに心な しか波を打つのを見たときの感動は今でも忘れられ ない。記録されたチャートに物差しを当てて変化量 を読みとるといった今では考えられないような解析 の結果、Hバンドで5%、Kバンドで2%という偏 光を見つけて驚いた。結局、可視光域のデータと比 べて見ると、波長とともに減少する傾向が、赤外領 域で再び極大を示すこと、また、偏光面が可視光と 赤外では直交していることが分かった。この結果か らわれわれはVYCMaの周りには円盤状のダスト雲 が取り巻いていることを推定した。幸運に恵まれた 観測であったが、これが偏光観測の初成果になった。 次なるターゲットとして銀河中心を選んだ。銀河 中心から強い赤外線放射が出ていることはベックリ ン・ノイゲバウアーらによって見つけられたばかり で、放射過程を知る手がかりは何もなく、その放射 が熱的なものか非熱的なものかさえ分からない状態 であった。非熱的なものならば偏光が見られるかも 知れないという淡い期待をもって試みることにし た。しかしながら、強いとはいえ、91cm望遠鏡で 見てKバンドでS/N=2〜3という惨めなものであっ た。これで偏光を測定するなど無謀に近かった。そ れでも、何10分にわたって積分したデータの中にノ イズに埋もれたかすかな(約5%)偏光成分がある ことを見つけた。統計的にはとても有意とはいいが たく結論は、後に述べる上松に作った赤外線望遠鏡 による観測まで持ち越されることになった。不思議 なことに、結果的には偏光量、偏光面ともにこの怪 しげな観測結果は正しかったことが上松の観測で確 認され、それが可視光でよく知られた星間吸収のよ る偏光で説明できることがわかった。結局、銀河中 心の近赤外線放射は星の光のような熱的なものであ 図3−60 筆者(左)と佐藤修二さん(1967) 111 観測装置
り、それが磁場によって整列された星間塵の間を通 過する間に起こった現象であるということで、偏光 量も偏光面も無理なく説明されることが分かった。 これは、銀河系内の磁場構造が中心付近に至るまで 太陽系近傍と同様であることを示す初めての情報を 提供したものでもあった。その後、この観測は小林 行泰君によって開発された1/2波長板を使った精度 の高い偏光計を用いて銀河中心の広い領域に広げら れ、銀河中心部分における磁場構造推定の手がかり を与えるものになった。 岡山での観測は主として、91cm望遠鏡によって 行われ、時には188cm望遠鏡も使わせてもらえたが、 観測はすべて手作りの装置を持ち込んで行った。当 時は、もちろん中国自動車道はなく、渋滞の続く2 号線をレンターカーに観測器、真空ポンプ、液化ガ ス容器など観測に必要な道具一式を積み込んで、京 都からおよそ8時間をかけて観測所へ通った。当時 のレンターカーは高いくせに整備の悪いものが多 く、一度などアクセルの戻らない車をだましだまし 運転するといったこともあった。その後、これは京 大病院から譲り受けたお古の小型トラックに変わっ たが、うわさによればこれは遺体を運んだものだと いう曰くつきのものであった。観測所では、副所長 の石田五郎氏や清水実氏を初め多くの職員に大変お 世話になった。特にお行儀の悪い物理屋の行状には 驚かれたようで、一度など、神聖な望遠鏡の控え室 で物を食べたり、飲んだりしたということでとんだ 顰蹙をかったこともあった。それでも、物理屋は何 をしでかすか分からないとあきれられながらも温か い目で見守っていただき、何とか有意義な観測が出 来たのは皆様の寛容の賜物と感謝している。 こうして、遅々とではあるが、研究らしい観測が できるようになったが、いくつかの問題点も浮かび 上がってきた。特に、観測時間の短いことが深刻な 問題であった。岡山の望遠鏡は全国の研究者に開放 されていたので、当然のことながら特定の個人ある いはグループに与えられる観測時間は限られたもの であった。我々の場合はむしろ、初めてのことでも あるということで好意的な取り扱いを受け、91cm 望遠鏡を年間3ないし4回、188cm望遠鏡も1ない し2回使わせてもらえた。しかしながら、晴天率も 考えると、開発要素の多い我々の場合、これでは観 測器の試験にも事欠く状況であった。そんなわけで、 なんとしても専用の望遠鏡を持ちたいという気持ち が盛り上がってきた。とはいうものの、素人集団の 我々にとって、望遠鏡づくりなどは考えようもなく、 また、予想される多額の建設費の調達も見当さえつ かなかった。当時としては高額の助成金の出るとい う東レに応募したが、ものの見事に落ちた。(後で、 この年は小田稔先生のX線気球望遠鏡に授与された ことを知った。)ところが、何の期待もなく物理一 般として応募した科研費(1800万円)が採択された と聞いたときは、青天の霹靂で、喜ぶというよりは 不安でいっぱいになったものである。正直に言って、 ろくな技術的検討もなく、予算の積算根拠も曖昧で あったので、これで望遠鏡が作れる自信は全くなか った。しかも2年間で作らなければならない。当時、 6mのミリ波望遠鏡を作っておられた森本さんに窮 状を訴えたところ、焼津にある法月鉄工所を紹介さ れ、法月社長の肝いりでアルミ鏡を使って口径1m の望遠鏡を作る羽目になってしまった。 その後の2年間はまさに悪戦苦闘の連続であっ 112 第3章 図3−61 188cm反射望遠鏡カセグレン焦点に赤外線測光器を取り付ける 筆者(左)と佐藤修二さん(1967)
た。名古屋大学のグループの応援を受け、また、長 谷川先生の暖かい御協力と、舞原君のがんばり、佐 藤君の文字通りの寝食を忘れての努力で何とか形を 付けることができた。望遠鏡の設置は東京天文台木 曽観測所の南、約2kmにある上松町の経営する才 児牧場に決まり、1972年7月7日に開所式を上げる までに漕ぎ着けた。専用望遠鏡を持てた喜びはあっ たものの、ここでの観測は想像を絶する悪環境で行 われた。寝泊まりは、あまりにもひどい環境で逃げ 出した牧場の管理人の宿舎を借り受け、食事はすべ て自炊で賄われた。真冬の観測では氷点下20度にも 下がり、口も利きたくなくなるほど過酷なものであ った。宿舎ではビールまで凍る有様で、こんな環境 にもめげず観測に詰めてくれた大学院生には頭の下 がる思いであった。 幸いにも、完成直後に、Kohoutek彗星やWest彗 星などの大彗星、また、小狐座新星などが立て続け に現れ、貴重な成果をいくつも上げるといった幸運 に恵まれて天も若者の努力に報いてくれた。この頃 になると、やっとInSb検出器が手にはいるようにな り、高精度で銀河中心の偏光の確認をすることがで きたり、野口邦男君が中心になって、炭素星スペク トルの系統的なサーベイなどユニークな仕事ができ るようになった。物理屋の素人仕事じゃどうなるこ とやらという心配もあったが、藤田良雄先生にはい つも励ましのお言葉をいただいて大いに勇気づけら れたものであった。 上松で一通りの仕事ができるようになって一息つ いたら、さらに欲張った話が出始めた。そのころ米 国では、NASAの3m赤外線望遠鏡(IRTF)、英国 の3.8m赤外線望遠鏡(UKIRT)がハワイのマウナ ケア山上で活躍を始めていた。専用望遠鏡は手に入 ったものの、口径1mでは物足りない、とりわけ、 国内での観測条件の悪さでは喧嘩ができないと若者 たちが騒ぎ出した。そのころ、光天連が組織され、 岡山の望遠鏡に次ぐ次期大型望遠鏡の議論が活発に 行われていた。3m級を国内に、いや、それ以上の 大型を国外にと全国の研究者によって喧々囂々の議 論が繰り返されていた。我々は、赤外観測を考えれ ば、国外以外の解はあり得ないと、身の程知らずの わがままを言い続けた。結果的には、口径8mをハ ワイに作るという東京天文台の大英断と、長年にわ たる関係者のなみなみならぬ努力によって一昨年見 事に完成した。我々の岡山での出発は、取るに足ら ない小さな第一歩であったが、これがこういう形で 実を結ぶことになったことを思うと感慨無量であ る。 113 観測装置