装置開発という面で私が岡山に直接に関わりを持 ったのは、比較的最近になってからで、それは、 SNGの開発からである。周知のように、この装置 はロングスリットで銀河像を走査して、面分光デー タを取得するシステムのことで(図3−59参照)あ るので、Spectro-Nebula-Graphと名づけた。この提 案をしたとき、こんなものを「開発」と称するのか という陰口もあったようだが、「データキューブの 取得」という目新しさと、大宇陀観測所でのプロト タイプの成功が、多くの人にアッピールして、共同 開発研究に応募した研究費が認められた。開発のた めのマシンタイムも潤沢にもらえて、2年間にわた る開発を順調に終え、台外者をPIとする最初の共同 利用装置とし稼働をはじめた。近年は、だいぶん老 朽化してリスクシェア装置になったようだが、まだ 動いているうちに、このシステムの開発に至る背景 を書いておきたい。 恒星分光仕様で作られた188cm望遠鏡で銀河の分 光観測をすることには、様々の問題があった。岡山 の初期には、星雲分光器という装置があった。これ については、「観測天文学シンポジウム集録」(1971) の拙稿を参照していただきたい。その後、イメージ インテンシファイア付きのカセグレン分光器(通称 カセI.I.分光器)が作られた。この装置は、像輝 度の増幅機能はあるが最終検出器が写真であったこ とと、必ずしも、銀河分光には最適化されていなか ったという問題点を抱えていた。しかし、これを用 いて、銀河の分光観測が岡山でも行われ、経験が蓄 積されていった(若松、「岡山ユーザーズミーティ ング」、1998)。一方、これと平行して、木曽のシュ ミットで銀河の撮像が出来る環境がある程度ととの い、本格的な銀河分光観測装置の要求が一段と強ま ってきた。 80年代に入って、新カセグレン分光器* 計画の具 体化(岡村、「岡山観測シンポ」、1981)が進み、ロ ングスリットと電子的検出器を備えた新カセグレン 分光器の製作が始まった。この計画には、二つの大 107 観測装置 SNG物語 −74吋を星から銀河に− 大谷 京都大学宇宙物理学教室教授 編集者注:*本誌においてはカセグレン分光器と称してい る(P77参照)
きな期待があった。一つは、世界に劣らない銀河の 観測が岡山でもできるようになるというユーザーの 期待である。もう一つは、製作はメーカーに丸投げ しないで観測所が中心になっておこない、観測所の 開発力を高めることである。観測所は、ユーザーの 期待に応えるべく、議論をしながら設計をおこない、 光学系と大物部品以外の製作の大部分は所員の手で すすめられた。これまでの装置製作の計画は観測所 で決められ、出来た装置をユーザーが使うというの が基本的な図式であったが、新カセの製作では、中 核的なユーザーには装置開発へ参加意識が育ってい った。装置の立ち上げ作業にユーザーが参加したの も、岡山でははじめてのことであったと思う。 ところが、立ち上げは難航し、80年代の終わりに なっても使える見通しが立たない状態であった。最 大の問題点は検出器であった。観測所ではこの分光 器製作の一環としてCCDカメラ開発をしていた。 温度を下げると電荷転送効率が下がるとの理由で、 電子冷却を採用しているため、暗電流が高い。観測 所は、共同利用にリリースをしたが、とても当初の 期待にそえる性能はなかった。(土居、岡村、「岡 山・堂平UM」、1989)。新鋭機で観測できる時を期 待して立ち上げに参加していた中核的なユーザーか らも、見切りを付けるものが出てくるような状態で あった。数々の初期不良と相まって、新カセは何も かもダメという風評が広がり、開発に従事していた 人たちには、本当に気の毒なことであった。岡山は ダメ、日本はダメ、やっぱり外国でないと、という 風潮に一層拍車がかかった。 私自身は、この装置の製作の時期と長期外国出張 とが重なっていて、具体的な関わりは立ち上げの最 終段階からである。このとき私に分かったのは、新 カセは、耳にしていたよう何もかもダメなものでは ないことである。もともと銀河仕様で作られている ので、これまでの分光器に比べると格段によく、工 夫も多い。初期不良を根本的な不良であるとユーザ ーが誤解している点が多いのであって、基本的には ポテンシャリティーがある装置であると思った。検 出器については、資金の問題という苦しい事情があ ったためではあると思うが、開発研究と共同利用装 置を直接リンクさせているポリシーが事態を困難に しているのであることは明らかであった。 この頃、京大では、大宇陀観測所でも既製品の CCDカメラを購入し60cm望遠鏡で実験的にSNGを 開発し、うまくいった。このノウハウと新カセのポ テンシャリティーを結びつければ、いい観測ができ るという見通しは容易に得られた。そこで、京大の CCDカメラを新カセに付けてシステムをつくる計 画として、岡山のグループと共同して実行にはいり、 資金を得て専用のCCDカメラを購入して今のシス テムができた。当時は、新カセの計画開始からすで に10年を経ていて、CCDカメラを付けただけでは 図3−59 SNGによる3次元分光の概念図 108 第3章
世界に劣らない装置というわけには行かない時期に なりつつあった。SNGという、ユーザーフレンド リーで新機軸の3次元分光機能を付加価値として与 えられて、ユーザーに見捨てられかけた74吋望遠鏡 は、銀河の観測が出来る望遠鏡として、遅れた10年 を取り返し、さらにその後の10年の寿命を延ばした といえよう。 最後に、今後の装置開発への参考のために、SNG が、大学と岡山の共同開発として成功したことの鍵 となったと思っている点を整理しておく。 1.大学で生まれたアイデアに基づいたプロトタ イプの実験が十分なされていた。 2.観測所に、問題意識を共有している研究者が いた。 3.大学と観測所をつなぐシステムが整備されて いた。 SNGにおける大宇陀と岡山の関係は、今後の岡 山とすばるの関係として予見される。 109 観測装置 「天文台日記」より 石 田 五 郎 著(筑摩書房) 3月7日  晴れ  夜にはいり曇 昼すぎ目をさます。パートタイムの炊事のおばさんが休みで、きょうは自炊である。昼食は宿直の 大川さんの番で、鯖の煮付け、ほうれん草、なっとう、みそ汁。夕食は私の番でポタージュ、サラダ (フレンチ・ドレッシング)、チキン・カツ。創設の時代には、泊まり込みのときはいつも自炊であっ た。それもカレーうどんのような簡単なものばかりで、週刊誌の「掲示板」という欄に、リクエスト の寄稿をたのまれたので、夜食のメニューのご教示をお願いした。原稿が掲載されて10日ほどして、 東京のMさんからメニューの書いた手紙が届いた。aジャガイモ、チーズ、サラミソーセージ、いず れも細かに刻み、小麦粉(薄力粉)をまぶし水でねる。塩・こしょうで味付け。フライパンにサラダ 油をしいて焼き、両面をこんがり焦がす。sカニ缶、玉葱みじん切り。マヨネーズをこれに混ぜ、 塩・こしょう・カレー粉で味付けし、薄切りパンにはさみ、熱いコーヒーで食べる。このほか、か き・たいらぎ・エビ・生しいたけのピラフや、生しいたけ入りの簡易マカロニ・グラタンなど、こま ごまと料理の注意書きまで書いてあった。はじめの二つは簡単なので、たびたび試みた。又浜松市の Oさんからは上等な煎茶が届けられた。これらの見知らぬ人の好意に感謝しながら観測にはげんだ。 「天文学者は美食家であれ。」これは、なくなられた東北大学の松隈健彦先生のおしえである。天文学 は英語でAstronomy (アストロノミー)という。その前に一字GをつけるとGastronomy (ガストロ ノミー)。これは美食学ということばである。アストロノーマー(天文屋)はガストロノーマー(食 通)からはじまるというのである。天文屋は山間僻地で観測することが多いから、料理など手まめに するくせをつけよという深い親心からかもしれない。一説によれば、小惑星の大家、ドイツのマック ス・ウォルフ博士の持論であったともいう。たしかに天文屋には食通の人が多いかもしれない。東京 の田透博士などは、テレビ料理の時間にボストン仕込みの肉料理を披露するほどの腕前である。前半 夜は晴れがつづく。気味悪いほどに星像が小さく、あざやかである。後半に雲が来襲し、予想したよ うに後半夜は厚い雲がかさなり、"快曇"になる。これだけ雲が厚くなると、もう晴れ上がる心配はな くなり、データ整理や計算に専念できるので、快晴ということばにならって快曇ということばが生ま れてきた。