ここで私が回想するのは、岡山観測所40年の丁度 真中3分の1の時期である。1973年度から科研費の補 助を受けて天体の連続スペクトルの精密測光観測を 行うために、広波長域分光測光器(通称:マルチャ ン)を製作した。このような観測装置はすでに米 国・豪州で使われていたので、目新しいものではな いが、いくつかの点で技術開発の突破口となるので はないかと期待された。 1.コンピュータがやってきた! 第一に制御とデータ集録の中心に、当時やっと普 及しはじめたミニコンピュータを導入した(図3− 53参照)。それまでに東京天文台などで計算機を使 ってみた人はいたが、身近に置いて、ソフトウェア の基礎を会得し、プログラムさえ書けば、観測・整 約などを柔軟に処理できること、ソフトウェアの重 要性が認識されるようになった。最初のミニコンは 今のパソコンに比べて桁違いに遅く(クロック周波 数がMHz程度)、プログラミングはマシン言語かア センブラ言語かと不便ではあったが、計算機の仕組 みを理解するには適していたように思う。1979年に は、91cm望遠鏡と測光装置のためにもう少し大き なミニコンが設置された。これは簡単なOSでフォ ートランが使え、フロッピー・ディスク(8インチ!) や文字ディスプレイも付いてプログラミングが楽に なった。さらに1984年には188cm望遠鏡の観測装置 のためにやや高速ないわゆるスーパーミニコン級の 計算機が増設されて(図3−54参照)、ほとんどの 観測が計算機に依存するようになった。しかしこの 流れは90年代に入って、ワークステーション・パソ コンの普及とともに技術的には一新されて、新しい 時代に変った。 2.ドライ・アストロノミへ 写真に頼らない天文観測として、光電測光は以前 から行われていたが、フィルターであれスキャナー であれ順次に測定していくので、情報量の損失が大 きかった。最初は精々10本程度の光電管からの出発 ではあったが、将来の狙いは画像検出器にあった。 1980年クーデ分光器にIDARSS検出器が設置された。 これは1次元レティコンに画像増幅装置(II)を前 置するという過渡的なものであったが、CCDの性 99 観測装置 岡山のInstrumentation 西村史朗 国立天文台名誉教授
100 能が向上する1991年ころまでは頻繁に利用された。 CCDは1983年ごろから国産素子と手作りのデュワ でテストが始まり、1986年にRCA素子を含むシステ ムが導入された。2次元光子計数装置(PIAS)など もテストされたが、次第に高性能のCCDが光学天 文観測のほとんどの領域を覆いつくした。 3.自力更生 最後に、しかし多分最も重要と思われるのが、観 測所で機器を開発していく態勢を確立することであ った。開所後しばらくはメーカに発注して納められ たものを使いこなすのに追われ、次第に工作機械も 整備されて小さな観測装置が自作できるようになっ ていた。「マルチャン」はそれまでにない大きなヴ ェンチャーであって、さらに新カセグレン分光器へ とつながった。一方電気系は計算機の導入とあいま ってディジタル化が計られ、これも自作した。1973 年当時、光電子検出装置と高速カウンタとの組合わ せは一式で百万円に近かったので、多チャネルを目 指すには予算枠からして自作するしかなかった。当 時はICをつないで動作をみるという、今の中学生 の電子実験キットのレベルからスタートしたもので あるが、その後はICからLSI・マイクロプロセッサ へと技術革新に精一杯追いついて行けた。 4.振り返れば あの十数年を離れて眺めると、予算の取れ方、技 術の進展に予測がつかなかったためとはいえ、あま りにも全体の計画がなくて進行してしまったように 思える。その結果、観測装置全体も計算機系もまる で「温泉旅館」のような継ぎはぎ構造になり、開発 の精力が多重に費やされたことを残念に思う。当時 作られたものは僅かな例外を除いて、形骸すら残っ ていない。(上述の中にもなんと「死語」が多いこ とか。)しかしながら効率を度外視すれば、すなわ ち何を成したかではなく、どう努力したかで判断す れば、すばる望遠鏡を実現した力の源流の一つがこ の時期に形成されたといえよう。 第3章 図3−54 FACOM スーパーミニコンS3300 メインメモリ6MB ディスク727MB 入出力  磁気テープ 図3−53 広波長域分光測光器に使用された初代計算機 ミニコンOKITAC4300C メインメモリ4Kワード 入出力  紙テープ