太陽クーデ(クーデ型太陽望遠鏡)は英国ケンブ
リッジの望遠鏡をモデルとして設計された。異なる
ところは赤道儀で階下におろしてきた太陽光を北側
に送る点である。北側にすると望遠鏡のピアとぶつ
かるので、ケンブリッジは太陽光を西側(多分)に
振ったのであるが、我々はピアに60cm角の穴をあ
けた。望遠鏡の傍に熱源となるような建物を避け、
全てを望遠鏡の北側-日陰側に集めるためである。
そのためのピア設計の議論があったのを憶えてい
る。折しもエレクトロニクスの進歩でウィルソン山
天文台等で成功している太陽像光電ガイド装置もガ
イド望遠鏡に取り付けられた。建設時に一時私は留
守をしていてウィルソン山天文台の塔望遠鏡を見る
機会を得たのだが、その駆動ギアの粗さにはびっく
りし、彼らには光電ガイド無しに長時間連続観測は
無理と納得したものである。あとは三鷹の塔望遠鏡
の経験から鏡材に熱膨張率の小さい溶融水晶を使用
し(今は膨張率ゼロと称するものがある)、可視全
域をとるエッシェル分光器、分光器スリット上のイ
メージをHα或いは白色光でとる装置(証拠写真と
呼んでいた)が通常の分光器に迫加された。エッシ
ェル分光器のカメラ鏡は望遠鏡主鏡(65cm)より
大きい1m、撮影は幅24cm長さ60mの航空フィルム
を使うという壮大なものであったが、エッシェルの
散乱光が多く輝線の解析には耐えられるが吸収線の
精密解析には難があった。今はエッシェルの性能も
向上しているであろう。設計建設は末元、清水(実)、
私、私の留守中は小平がニコンと行った。
1960年頃からであろうか太陽観測の世界に観測最
適地を全地球上で探そうという動きが始まった。そ
れまで我々が“シンチレーション”と呼んでいたも
のが“シーイング”に変わり、その方面の推進者キ
ーペンホイヤーも来日した。岡山の場合は夜間のシ
ーイングについては充分な調査が行われたが、昼間
については少なくとも組織的には行われなかった。
太陽クーデは36インチと共に74インチとワンセット
で最初から建設場所まで決められていたようであ
る。建設前に山の斜面でなく74インチの尾根筋にと
いう提案が短期の実験観測に基づいてなされたが聞
かれなかった。私は与えられた建設場所で8m(?)
レンズを使って太陽直接像の撮影を急拵えの装置で
しばらく行ったが、三鷹よりましなもののこれはと
いう良い像は得られなかった。結像する光束が地上
1mを走っていたので、もっと地上高く置かれる太
陽クーデでは良い像が得られるだろうという希望的
見込みであった。
1967年太陽クーデはできたものの、三鷹太陽グル
ープはロケット、気球、日食、乗鞍、等々忙しく、
使用者は京都太陽グループと私が主だったように思
う。多くの人が期待していた良いシーイングが得ら
れなかったので、飛騨ドームレス太陽望遠鏡ができ
てからは太陽クーデの仕事は偏光観測に限られた。
シーイングを悪くするものとして望遠鏡のある2階
から1階へ光束を下ろすクーデ穴のつくる上昇気流
が考えられるが、これを防ぐには高質な光学窓が必
要である。少々の実験も試みたが望遠鏡の筒先より
上で既にシーイングが損なわれている感じもして特
に措置をしなかった。ムードン天支台の塔望遠鏡で
は頂上の光取り入れ口をガラス窓で塞ぎ、その直下
の筒周りを電熱器で温め上昇気流を押さえていた。
私が太陽クーデで見た粒状斑が浮き出してくるよう
な良いシーイングは2回だけで、共に正午頃、継続
時間は30分ほどであった。角度1秒の構造を調べる
には頻度が少な過ぎた。
太陽クーデは赤道儀型であるため、シーロスタッ
ト型と異なり、光路中の鏡の反射角は観測中一定で
ある、また、直接焦点を2mも短くできたので、ポ
ラリメーターを置いての偏光観測に都合よかった。
最初は、小平設計・西調整の三鷹から持参した西ポ
ラリメーターから始め、川上(肇)が黒点観測で使
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観測装置
岡山の太陽観測
牧田
貢元京都大学教授