43 188cmの据え付けについては1961年代の天文月報 の石田五郎氏の記事に詳しい。ここでは印象的だっ た記憶を簡単にたどってみるに留めよう。1960年 に入ってからドームの建設、建屋の内装が着々と進 められた。当時は建築、ドーム、昇降床、メッキ装 置、クレーン、電気、水道などなどの業者が20社以 上集まり、時間と空間の取り合いの調整に、また報 道陣と見学者の多いのに苦労した。 望遠鏡が北を通過する時に分光器の下端がクーデ の屋根の北側にぶつかることに石田氏が気が付き慌 てて施設部に電話してやっと難を逃れたとか、クー デ分光器用の張り出しピアと建物の入り組んだ構造 を理解させるのに苦労したり、蒸着装置、クレーン や昇降床の取り付け部の構造で議論したり、ドーム 扉のワイヤ緊張装置を大改造したりと枚挙にいとま がない程問題が多かった。施設部との連絡も現在の 様にスムーズに行かず即決を迫られる目の回る毎日 であった。 据付け作業は末元、石田、清水、野口、乗本の各 氏で始まった。91cmと188cmの組立てが始まった ころ、グラブパーソンズからは職長級のホールと器 用で力持ちのランの2名の機械技術者と少し遅れて システムエンジニアのウォーレス氏が来日、据え付 け調整を行った。ドーム南側に大きなデリックを立 て、北ピアの後ろに太い頑丈な二又を組み、滑車と ワイヤとウインチとチェーンブロックを使っての離 れ業である。ベースキャスティング、北の軸受け、 極軸、赤緯軸バランス、鏡筒の順に組立てが進んだ* 翌年の春にもクーデ分光器の搬入が行われたが、 英国の技師達も日本の鳶職の優秀さに舌を巻いてい た。ベースキャスティングの軸受けの座が球面にな っているのを見て感心したり、緯度に合わせたレベ ルゲージを使って極軸を設定したり、ウオームギヤ の噛み合わせにも専用のゲージを使ったり、われわ れには初めての経験が多く、好奇心をかきたてられ る毎日であった。 英国製のネジ類は米国インチとはピッチが合わな いことが多く無理やりにタップを立て直したりして なんとか急場をしのいだ。また近所の工場で一寸し た細工を頼もうとしても、こちらは尺貫法しか通ぜ 観測所と共同利用 岡山天体物理観測所 立ち上げ期 清水 元岡山天体物理観測所副所長 編集者注:*P46、47の建設中のスナップ参照
44 ず目見当と勘で物を作っている所が多くこれには往 生したものである。結局は鈴木麺工さんのお世話に なりミラーカバーの改修や台車の製作が行なわれ現 在にいたっている。 配線工事は中国電気工事によって行なわれたが、 一本づつナンバリングリングをはめながら、図面と 首っ引きでのつなぎ込みは深夜まで行なわれ根気の いる作業であった。当時はコピー機もなく、図面に 修正の書き込みをしようとしても写真にとって複写 をするか、青焼き屋さんに頼むしか方法がなく、急 場は手で写して後から修正を行なった。この様にす べてはメーカーとわれわれの共同作業で行なわれ現 在とは大きな違いがあった。 真空蒸着装置の調整では、当初はチタンのゲッタ ーポンプを使用しており、イオンボンバードやフィ ラメントのアルミの量と電流の調節など名人芸を要 するところが多く、洗浄から蒸着まで、日本真空技 術と日本光学の技術者のやるのを眺めながら少しで もその技術を覚えようと必死であった。治具合わせ やターンテーブルの不具合などあったが、主鏡の蒸 着が行なわれたのは夏になってからである。1回目 は拭きむらが生じ2回目に成功したと記憶している。 主鏡のパイレクスの素材は茶色の91cmのとは違 い、青色を帯びていた。裏面側はガラスを折りたた んだあとがあり表面だけがきれいになっているのに は皆驚いていたが、これは望遠鏡の構造も同様で、 肝心なところは丁寧だが、不必要なところには無駄 な労力を使わないという思想の現れで興味深かっ た。その頃、同時に鏡の支持パッドの調整、クレー ンのテスト、着脱用台車とレールの調整、昇降床と 油圧装置の調整などが並行して行なわれ息つく暇の ない毎日であったが構造の理解には役立った。 ウオーレス氏が一番悩んだのがオッシレーターの 調整である。時計仕掛けは、DCモーターと同軸の シンクロの出力をオッシレーターの53.3Hzの信号と 比較してDCモーターにフィードバックをかけると いう方式であった。この調整がなかなかうまくゆか ず、岡山のNHKまで行ったりして苦労していた。 当時の表示系は、このオッシレーターの信号で恒星 時の針を動かし、極軸に取り付けられたセルシンか らの信号との差を差動セルシンで赤経として表示し ていた。赤緯は直接セルシンで表示されていたが、 共に秒角の精度は得られなかった。 ファインダーを使って星を導入する時代である。 毎晩クロノメーターを使って恒星時を合わせ、明る い星をファインダーを介して導入しゼロ点調整をし て観測が始まるという毎日である。その後、報時部 の飯島氏によって、新しい発信機と増幅器に換えら れ、電源事情がよくなってからはシンクロナスモー ター直結方式に変えられた。この望遠鏡は赤緯でも トレーリングが可能であり、クーデ分光器とともに 最新式を誇っていた。 スイスのマーグ社で研磨された大きな2m直径の ウオームホイールにはチェーンで回転できる目盛り 環がついており、これを一度恒星時に合わせておけ ば望遠鏡の赤経を読み取ることが出来た。赤緯にも 目盛り環がついており読み取りの精度も30秒角程度 であり表示系の調子が悪い時には大変便利であっ た。また、15cmのファインダーは当時ファインデ ィングチャートに使われていたボンの星図と見え方 がそっくりであり星の導入は楽に行なえた。指向精 度としては3分角程度、追尾精度は1分以上の露出に はたえられなかった。すべての装置は眼視によるガ イドが必要であり、これが観測の精度と能率を決定 付けていた。 制御系はリレーでロジックを組む方式であった が、英国製のリレーとコネクターは旧式のものが使 われており、殆どの部品は後から交換した。電源と リレーボックスは待機室の真上にあり、配線穴を通 して調理の蒸気によって結露し故障が続出した。ま た1次側の電圧ドロップや断線も多く、とくに3年目 には赤緯軸のケーブルツイスターが断線し大改造を 行なうなど技術進歩の激しかった時代であり部品交 換や改造改良が常に行なわれていた。 鏡の蒸着がすむと先ず主鏡の取り付けと調整が始 まり、焦点距離の確認から始まった。 エンジニア リングファーストライトはαBoo であった。その 頃の研磨技術では焦点距離は磨いた後でないと分ら なかった。数cm長いことが判明し、副鏡取り付け 座をスパイダーごと筒先の方向に移動させた。これ と同時にニュートンのカメラユニットなども移動さ せたが、キャッツウォークの穴を削り直すのは大変 な力仕事であった。 ニュートン鏡が取り付けられ、バランス調整がす 第1章
45 むとただちに光軸調整が行なわれた。懐中電灯を使 ってのオートコリメーションでニュートン鏡とダブ ルスライド式カメラユニットの傾きの調整、星像に よるナイフエッジテスト、コマフリーセンターのチ ェックなどが行なわれて一応調整は終了したが、同 時にデクリネーションドリフト法による極軸の修正 も素早く行われ当時の許容範囲である1分以下に追 い込むことが出来た。補正レンズの出来もすばらし く、広視野のアイピースで眺めたオリオン大星雲の 美しさは未だに目に焼きついている。 続いてのカセグレン焦点ではとんだハプニングが 生じた。焦点がどこまでいっても合わないのである。 床をどんどん下げて一番下までいってもまだドーナ ツ状であった。発送の時にクーデの箱ととり違えて いたのである。クーデ鏡を取り付けた時にも珍事が 発生した。大きな非点収差が出たのである。先ず3 鏡4鏡の締めすぎが疑われたが、結局4鏡の背部のボ ルトが僅かに当たっていることが分り決着した。 写真乾板の貯蔵庫、現像用器具、乾板の切断用具 なども順次整えられ現像方法のテストも始まった。 ニュートン焦点では、極軸の精密な再測定、ナイフ エッジテスト、ハルトマンテスト、プレートホルダ ーの調整などが、カセグレン焦点では分光器の調整 やハルトマンテストが開所式まで続いた。 秋以降は大沢氏、近藤氏、西村氏が加わり試験観 測が始まった。また藤田氏、広瀬氏によって性能評 価も行なわれた。2年目からは市村、二宮、渡辺、 中桐の各氏が加わり調整は著しく進んだ。本館が出 来たのもその頃である。 カセグレン分光器の立ち上げではプリズムの角度 調整、コリメーターの調整、特に苦労したのはチル トのついた焦点合わせである。プレートホルダーに は僅かにカーブがつけられており、その調整でも大 分苦労した。特に水晶(コルニュ)の紫外分光器の方 はチルトもカーブもきつく時には乾板が割れたりも した。Fの明るいシュミットカメラは乾板が小さく 扱いが難しかった。また比較光源は鉄アークであり これも熟練を要するものであった。スリットヴュワ ーは出来がよく、分光器の下端付近からどんな姿勢 でもガイドが可能であった。分光器のハルトマンテ ストを知ったのはこの時である。2つの分光器は恒 温に保つようにできていたがサーモスタットとヒー ターの調子が悪く、実用上は影響なかったが殆ど使 用に耐えなかった様に記憶している。 クーデ分光器が入ったのは翌61年の1月になって からである。調整は極軸内、コリメーター、グレー ティングなどの各光学要素の所にダミー鏡やターゲ ットを置き、カメラ鏡の所に設置されたセオドライ トを使ってアライメントを行なった。コリメーター がオフアキシスの放物鏡なのでカメラ鏡と平坦化レ ンズ付プレートホルダーの調整には一寸苦労した が、特殊ゲージなど工具が用意してあり何とかわれ われの手でも調整が可能であった。同時期に91cm の立ち上げ、測定器の導入も行なわれたが紙面の都 合で省略する。 観測所と共同利用