55 第2次世界大戦敗戦後、日本が文化国家として立 ち直ろうとしていた時、当時日本の天文学界のリー ダーであった萩原雄祐には、既に観測天文学の雄大 な構想があった(萩原1961)。光学天文学について いえば、戦後直ちに、消失した麻布の東大天文学教 室を再興するため、36吋望遠鏡の無償譲渡を HarvardのShapleyと交渉している。また1952年ロー マで開催された国際天文学連合総会で、より大きい 望遠鏡を持つ方策をShapleyと議論した。紆余曲折 の後、日本学術会議の決議を得て、Grubb Parsons の口径188cm望遠鏡を中心とした岡山天体物理観測 所が1960年に完成した。当時世界では、岡山188cm より大きい望遠鏡は4基、同じクラスのものが5基あ って、したがってPalomarの5m、Mount Hamilton の3m、Mount Wilsonの2.6mをのぞくとOAOは第1 級の望遠鏡を持っていたのである。 その後40年間の望遠鏡建設の歴史はよく知られて いるので、ここではのべない。わが国の望遠鏡が再 び第1線に並んだのは99年の「すばる」である。し かし、それは約lダースある8mクラス望遠鏡の一つ に過ぎず、気の早い研究者は「8mクラスの望遠鏡 の時代は終わり、天文学における次の本質的進歩は NGSTと次世代の地上望遠鏡(30mになるのか、そ れとも一挙に100mに飛躍するのかは別として)に よってなされる」という(私はこのような見解に反 対である)。 OAOが人類の天文学にどれだけ寄与したかとい う点については、私の見解は厳しい。しかし、それ を客観的に証明するデータを現在持ち合わせないの で、他日に譲る。 OAOの最大の貢献は当初から共同利用(宮地 1961)によって運営され、日本の観測天文学(光、 赤外)研究者のすべてがOAOによって育てられた ことである。最初にのべた口径1.8mもしくはそれ 以上の望遠鏡はこの原則に基づいて運営されてきた わけではなく、その意味でOAOは、アメリカの NOAOやヨーロッパのESOに対応する役割を担って きた。OAOを40年間にわたって支えてきた故石田 五郎さん、清水実さん、前原英夫さんをはじめとす る現地教職員の方々は、OAOが存在しなければ 「すばる」は決して実現しなかった事を誇とされて ほしい。 参考文献  萩原雄祐(1961),天文月報,54a,4 宮地政司(1961),天文月報,54a,7 観測所と共同利用 国際的に見た 岡山天体物理観測所について 寿岳 東海大学文明研究所元教授
第1章 56 188cm反射望遠鏡ドーム(1994年)