16 私どもの年代は岡山と共に育ってきた気がする。 岡山ができるまでは、日本には太陽以外の天体につ いて本格的な分光観測のできる望遠鏡はなかった。 私達の学生時代には、大先生が、私の場合には、藤 田先生がアメリカ、カナダで撮影された乾板を借り て来られ、それをお借りして測定したものである。 その後、本郷の屋上にあった40cm望遠鏡に小型分 光器を製作して明るい星のスペクトルを撮ってい た。この経験は後で役立ったように思う。 そのような時に188cm望遠鏡ができて、自前の データを撮ることができるようになったわけであ る。研究の進展と共に、これを知りたい、あれを知 りたいということが起こるが、それに対応できるよ うになったわけである。以来停年まで、観測者とし て岡山のお世話になって仕事をしてきた。 岡山天体物理観測所は1960年に発足した(年表参 照)。初代観測所長の大澤先生、現地責任者の石田 さん、清水さん、三鷹からは末元先生、近藤さん、 西村さん、そして当時はまだ若かった現地の皆さん が望遠鏡の立ち上げ、調整、運用に献身されて、 種々の困難を克服して、観測所の態勢は整えられた。 以後40年になる。 岡山の地を選んだのは、勿論、星像が小さい、晴 天の年間の偏りが少ないといった天文学的条件から だが、当時の三木岡山県知事をはじめ、地元の強力 な誘致もあった。実は、これだけ誘致されたのは、 国立天文台の施設のなかでも珍しいことなのであ る。地元では、鴨方町役場の秋田さん、倉敷天文台 の本田さんに特にお世話になったとお聞きしている が、お二人とも故人になられた。三木知事は同じ手 で、水島コンビナートも誘致され、数年にして空が 明るくなって困った。知事は多分、天文台とコンビ ナートが両立しないことを御存じなかったものと思 われる(?)。私達は誘致されたという立場で、県に 観測環境維持への協力を要請した。その結果、恒常 的な観測協力会議が持たれ、実効はなかなか上がら ないが、各企業と話し合うことはできるようになっ た。 岡山の望遠鏡は188cm, 91cm, 太陽の3台とも建設 当初から実質的共同利用に供されてきた。現在の本 格共同利用と違って、他機関には観測旅費は出せな かったし、観測計画の立て方も違っていた。また、 岡山天体物理観測所 と共に 山下泰正 国立天文台名誉教授 (元岡山天体物理観測所所長)
17 観測所経費の不足分を大学本部からもらっていた関 係で、よもやこの経費を他大学の人に使わせてない でしょうねと云われたこともある。写真乾板などは 少量では買えないので、観測所のものを使ってもら っていると理解を求めたこともあると、石田さんか ら伺った。当初、観測プログラムは東大、京大、 東北大、及び東京天文台の関係者の方に集まって頂 いて、プログラム会議を開いて決めていた。現在の 委員会と違って、一日だけの出張依頼であった。そ のため、会議の席上で伺ったご意見はその場でプロ グラムに反映させるのが難しく、来年以降考慮しま すとお答えすることが多かった。会議のその場で、 プログラムを決めていただくのが趣旨だからであ る。 観測プログラムの判定条件は、どうすれば研究の 実が最も上がるかだと考えたし、そう実行してきた 積りである。果たして有意なデータが得られるかど うかといった難しい観測では、もう少し御本人に検 討してもらいたくても、188cmが一台しかない状況 では、それもかなわぬと悩んだ。研究成果は最も重 要だが、あまり論文、論文と言うと、応募者の方も 確実に論文に書ける安易なテーマに移ってくる。こ れは研究の矮小化であって望んだところではない。 現在のような恒常的なプログラム委員会になって、 私の胃の痛みはずいぶんと解消された。 私が大澤先生の後、観測所長をお受けしたのは 1976年からである。我が国の天文学の発展と共に、 188cm望遠鏡が超過密になってきた頃である。また、 二度のオイル・ショックを経て観測諸経費が目減り した頃である。皆さんにもご迷惑をお掛けしたと思 う。 創設の経緯、初期の立ち上げ、及び40年間の研究 成果については、それぞれの方に御寄稿いただいた ので、そちらをお読み頂きたい。 岡山の次の望遠鏡をという私達の希望は、すばる 望遠鏡で実現した。188cmから8mにジャンプでき たのは、計算機の進歩によって、徹底的なシミュレ ーションが可能になったことと、長年にわたる岡山 現地での技術的研鑚に負うところが大きかったと思 っている。 HILGER & WATTS 社製のカセグレン分光器がつけられている188cm反射望遠鏡(1962年