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私が『天文月報』を読みはじめた高校時代、その
表紙やグラビヤを毎号のように飾っていたのは、岡
山の74インチ望遠鏡建設の進捗レポートだった。当
時の「岡山」への期待の大きさが、よくわかる。あ
る意味では、今日のすばる望遠鏡に対する以上の大
きな期待が寄せられていたと言ってよいだろう。何
と言っても、太陽系外の広大な宇宙を探究する我が
国最初の本格的望遠鏡である。当時の萩原台長はじ
め関係者の努力もさることながら、初めての国債に
よる科学研究施設の建設だったことでも分かるよう
に、文部省や科学関係者の意気込みも大きかった。
岡山の建設が始まった1950年代は、欧米では電波天
文学がめざましく勃興し、またパロマの5メートル
望遠鏡が大活躍をはじめた時期である。だが日本は
まだ、敗戦から10年余を経たに過ぎなかった。
グラブ・パーソンズ社から購入された74インチと
ほぼ同型の望遠鏡は、カナダのドミニオン天文台を
はじめ、南アフリカ、エジプト、フランスなどに設
置されている。その中で岡山の特徴の一つは、運用
から新たな装置開発までを、純粋に日本人、すなわ
ち非欧米人の手で行ったことではないだろうか。当
時の世界では、大変珍しいことだった。むろんその
ころの日本では、外国人を雇用すること自体難しか
った。その一方、欧米人に負けるものかという気概
もあっただろう。近代科学は、100パーセント欧米
社会が生み出したものである。経験とシステムを持
った欧米人に頼らず、自前で新しい大型装置を運用
し科学を進めるのは、言うは易いが困難だ。欧米の
天文台で修行を積まれた藤田、大沢等の諸先生がリ
ードされたわけだが、それでもすべての面で充分な
ものだったとは、とても言えない。特に装置開発で
は苦労が多かったようで、この記念誌でも縷々語ら
れているとおりである。
だがこの「自前」の姿勢は、結果として他に替え
難い実りをもたらした。もちろんこの望遠鏡を使っ
て、多くの天体物理学者が育ったことがある。それ
に加え、苦労してつちかった経験が岡山に蓄積され
てきたことが大きい。本記念誌で多くの筆者も述べ
ているように、それなくしてはすばる望遠鏡が生ま
れることはなかっただろう。岡山で育った経験をコ
アに、新興の赤外線天文学や電波天文学のスタッフ
の力も結集して生まれたのが、8.2メートル光学赤
巻頭言
岡山への新しい期待
岡山天体物理観測所40周年記念誌に寄せて
海部宣男
国立天文台台長