4 荒涼たる砂漠に疲れはてた旅人は、地平線のはる か彼方のオアシスを夢みる。この苦悩に満ちた人生 の行路をさまよう人類は、到達しえないものにあこ がれる。こゝに人類文化の原動力があり、最高目標 がある。そこに天文学の意味があり、天文学が原始 時代から人類の深刻な課題として提供されている所 以である。 宇宙の始めとか終りとかを知るためには、まず現 在の宇宙を知らねばならない。しかもあの広大な宇 宙には、常に新しく星は生れ、たえず星は死滅し つゝある。 天体は大きな実験室であり、極端に高い温度、低 い温度、極端に稀薄な状態から、密度の極大な状態 まである。このような研究は天体のスペクトルを撮 ってそれを精密に研究してはじめてわかる。スペク トル線の太い細い、濃い淡い、その先の強さの移り 具合からくわしく研究すると、天体の温度、圧力、 そこにある電気の場や磁石の場の強さ、その組成、 つまり1ccに水素や炭素や鉄の原子が何個あるかが わかる。 これらの天体は光が弱いもので、スペクトルのく わしい研究には、天体からくるたくさんの光を集め るために大きな口径の反射望遠鏡が必要である。 天体の組成、構造、作用を知り、ひいては天体の 進化を研究するためには、突然輝き出した新星とか、 短時間にスペクトルを変える変光星を研究すること も必要である。 ヨーロッパとアメリカと日本とは経度で120°ずつ へだたっている。ちょうど茶の湯で使う鼎の三脚を なしている。しかも地球は自転しているから、欧米 の昼の時に起った天界の現象は、その時夜である日 本でないと観測できない。だからヨーロッパとアメ リカと日本と三ヵ所に、同じ大きさの望遠鏡をおい て天界の現象のたえない不断の連続的研究をしなけ ればならない。急激に変るか、突発的に起る現象を つかまえて、日本がぜひしなくてはならない研究を、 そしてそれがなくては世界の天文学の進歩が妨げら れるというような研究をしなければならないのであ る。日本のためひいては世界人類のため、日本の天 文学のもつこの重大な責務を果したいと存ずる次第 である。 昭和28年5月15日・NHKラジオ「やさしい科学」より抄録 鼎の三脚 萩原雄祐 元東京大学東京天文台台長
5 萩原雄祐博士(1897−1979) 東京大学名誉教授。1946年10月に天文台長に就任、戦後の最も困難な時代に天 文台の復興と拡大に尽力する。台長在任中の10年あまりの間に、掩蔽観測によ る測地事業、報時事業への水晶時計の導入、乗鞍コロナ観測所の設立、太陽電 波観測用の口径10mのパラボラアンテナ設置、と次々と日本の天文学の近代化 を進め、天文台職員数を4倍に増員した。 1952年ローマで開催された国際天文学連合に戦後最初の日本人として出席、 その帰途ヨーロッパ、アメリカの天文台を歴訪し、世界の趨勢は天体物理学の 発展にあることを痛感、日本国内に大望遠鏡を建設することを決意する。その 後、実現に向けなみなみならぬ努力をする。アメリカ各地の天文台を講義しな がら費用を得てまわり、大望遠鏡についての相談をしたり、シャプレーやフォ ード財団に口径150cm程度の鏡を貰い受けるようにかけあったこともある。計 画を進行している最中、御前講義の機会があった。天体の進化について進講し たのち、天皇陛下に向かって、“このような研究をするには大望遠鏡が必要であ る。1億5千万円くらいあればできるのでそれが欲しい”と直訴した 逸話があ る。その後、日本学術会議の勧告をとりつけるなどして、台長在任の終わりの 頃に実現の運びとなり、岡山天体物理観測所が口径188cm、91cmの望遠鏡とと もに設立され、日本でも天体物理学の観測研究ができるようになった。 萩原博士の行政能力が優れていたことは上記からわかるが、それは“行政の技 術によってではなく、天文学に対する情熱と日本の天文学の水準を世界の一流 にまで持ち上げようとする意欲に支えられたものである”、と古在由秀博士(後 の東京天文台および国立天文台台長)は記している。 * コラム「萩原雄祐博士の直訴事件」参照 略    歴 萩原雄祐博士の直訴事件 1953年の正月である。「たまたま新年の講書始めの進講者の一人に私(萩原雄祐博士)が選ばれた。その日 は早朝に目がさめた。進講の原稿に望遠鏡のことを書き足した時の私の心境は実に澄みきっていた。昔なら ば直訴ははりつけ .... の刑をうける!佐倉宗五郎を思いうかべて、次の時代のために生命を賭ける喜びに震えて いた。天体の進化について進講申しあげた後で。こんな研究をするには大望遠鏡が必要である。1億5千万 位あればできるのでそれが欲しいと申し上げた。聴講の人たちの間にはざわめきが起っていた。しかし私は 総理大臣の吉田(茂)さんが欠席されていたのは返えす返えすも残念であった。吉良を打ち損じた浅野の心境 であった。聴講の学者たちは文部大臣の大達さんに、あんなに云っているのだから買ってやれと云ってくれ たらしい。別室で御馳走になっていた我々進講者のところへ宮内府長官がきて話してくれた。しかし私は内 心穏かではない。直訴は死刑である。私はその足で大学へ行って矢内原総長に私はこうこうの悪いことをし たから応分の御処分をといった。矢内原さんは笑って答えない。それから文部省に行って稲田局長にも、こ うこうのことをしたから大学総長にいって私を処分させてくれと話したが、これも笑って答えない。進講を きいていた岡野さんは先生よかったですよと云う。その後は何の音沙汰もなく、次の時代のために生命を投 げ出した甲斐があってここに74吋の望遠鏡ができあがったのである。」 これは、天文月報第54巻(1961年)に書かれた「直訴事件」の真相である。